理科、そして社会をいつから習い始めるか知っていますか。
答えは、小学3年生からです。
小学校1・2年生では「生活」を学習します。
Wikipedia先生によると、
とあります。
私は当時生活の授業を受けたはずですが、まったく覚えていません。30代後半以後の保護者の方になると、理科社会を小学校1・2年生で習わないということは、実際にお子様の教科書をもらったときに気づくことではないでしょうか。
高校生の理科が今どのようになっているかご存じですか。
私の頃は、理系と文系は受験する科目が理科が2科目か社会が2科目かの違いがあるだけで、内容は同じで、ほぼ形骸化していた理科総合という科目がセンター試験にあって、まったく勉強しないで受けても80点以上取れた記憶があります。難関国立大を受けた友人などは無勉強で100点を取れたと自己採点の時にいっておりましたが、受験する大学の学部学科で理科総合が適用されなければ、入試科目として意味がないといった感じでした。
ここで再びWikipediaの情報です。
総合理科は、2012年の学習指導要領改訂により、2012年入学生から同趣旨の科目として「科学と人間生活」が設けられたため、2011年入学生の高校卒業と同時に「理科基礎」とともに科目廃止される。なお、「科学と人間生活」を履修する場合は、「物理基礎」「化学基礎」「生物基礎」「地学基礎」の4科目のうち1科目以上を併せて履修すればよいが、「科学と人間生活」を履修しない場合は、「○○基礎」の4科目のうち3科目以上を履修しなければならない。
受験する科目だけでなく、総合的に理科が勉強できるように、基礎科目という制度を導入して、従来の総合理科が廃止されたのです。基礎科目制度によって、文系と理系の理科の試験の難易度の差別化ができた(これは社会についても似たようなことになっています)のはいいのですが、結局文系の受験理科は1科目だけしかも基礎という制度によって文系より理系を評価する傾向が高まったのではないかと思います。社会ができて多少物知りだと評価されても依然として本には「地頭(もともとの能力)が高いかどうか」というところを主観的に評価しがちであるので、以前として、社会に出た実績や学問に対する努力より、出身校が評価される傾向があるのではないかと思います。
確かな情報でなくて申し訳ないのですが、九州では国立理系の志向が高まっており、私立大が多く集中している福岡で私文の志向の傾向が少し強い程度です。さらに工学部に情報科が併設される(パソコン関係の学部です)ようになったため、建築学部の志望が少なくなったので、建築学科の入試偏差値が下がり、加えて建築士の資格を持っている人が減少傾向にあるのではないかと私は個人的には考えています。そもそも情報学部(学科)が理系なのかということについては甚だ疑問があります。機器本体の作りについて学ぶわけではなさそうです。
学部学科の適切な差別化を図り、また、理科社会の科目を小学1年生からに戻すことによって、子供たちが将来目指すべき職業の多様化も図られるのではないでしょうか。
特に災害の多い日本では、地震についてなどは中学理科でも中学社会でも学ぶ分野なのです。早いうちから知識をつけておくに越したことはないでしょう。
さて、本題の、日本の災害の歴史についてです。
①疫病:高校の日本史になると、天然痘つまりは疱瘡の記述が平安時代あたりの資料に見られると思うのですが、疱瘡は医学用語のようです。たびたびおこった流行り病なので、いつの出来事とはしづらいかもしれません。
②飢饉
高校社会では平安末期の養和の飢饉(1181年)が出てくると思いますが、中学社会でも飢饉はあまり入試頻出分野はので、江戸の四大飢饉にしぼることにします。
・寛永の大飢饉(1640~1643):三代将軍徳川家光の頃に起こった災害で、火山の噴火や九州で起こった牛の大量死などが原因となったようです。家光は各地の米作離れを防ぐため、雑穀の栽培を制限し、その監視に譜代大名を領国帰国させたため、このころから譜代大名も参勤交代するようになり、大名の力を削ぐ結果にもなったようです。
・享保の飢饉(1731~1733)ウンカの大量発生による稲作の被害や梅雨の長雨などによる天候不良からくる不作によって起こりました。当時将軍であった吉宗もこれを教訓に米以外の作物の栽培を奨励するようにりましたが、1733年には江戸最初の打ちこわしと呼ばれる享保の打ちこわしが起こり、米商人の屋敷が起こりました。ちなみにこの飢饉の死者の供養のために始まったのが、墨田川の花火大会なのですが、2020年現在コロナ疫のために中止になってしまったのは皮肉なものです。
・天明の大飢饉(1782~1788)江戸最大の飢饉と言われます。1770年代から特に東北地方では悪天候による冷害による被害に苦しんでいました。それに加えて1783年、岩木山、浅間山と噴火が起こります。老中田沼意次による重商政策によって米価の高騰に拍車がかかったことが町民怒りを買った原因とされてすが、直接の原因は当時の町奉行にあります。当時名奉行として名高かった曲淵 景漸は、「昔は米が払底していた時は犬を食った。犬1匹なら7貫文程度で買える。米がないなら犬を食え」「町人は米を喰わずに麦を喰え」などと放言し、その舌禍が町人の怒りの導火線に火を付け、群衆により複数の米問屋などが襲撃され、江戸市中が一時無秩序状態になるほどの大規模な打ちこわしに発展してしたとされています。拡大するこの事態に江戸城中では寺社奉行と勘定奉行と町奉行の、いわゆる三奉行が対応を協議しましたが、なぜ町奉行所が現場に出向かないのかと批判されると、北町奉行の曲淵景漸は「この程度のことでは出向かない」と回答しました。この曲淵の発言に対し、勘定奉行の久世広民は「いつもは少し火が出ただけでも出て行くのに、今回のような非常事態に町奉行が現場に出向かないというのはどういうことだ」と、厳しく批判しました。結局、景漸ら町奉行所勢は打ちこわし鎮静化を図るために現場に出向くことになりましたが、時遅しといったところですね。ちなみにこのお奉行様は杉田玄白ともかかわりがあり、知っている人は知っている長谷川平蔵が活躍したのもこの頃です。打ちこわしを行う庶民たちの捕縛を命じられましたが、平蔵をはじめ手合い組はほとんど民衆を捕まえなかったようですね。そのことから人気の高い人物として、時代劇の主人公にもなっているのだと思います。このエピソードを高校生で知ったとき、それを舞台に小説を書きたいと思いましたが、そのままになってしまいました。
・天保の大飢饉(1833~1839)主な原因は、洪水や冷夏による凶作です。米作に偏った政策を行っていた地域の被害が特に甚大だったようです。米価急騰も引き起こしたため、各地で百姓一揆や打ちこわしが頻発し、1837年大阪で起こった大塩平八郎の乱の引き金となったようです。
以上をまとめると、飢饉の原因は、悪天候と米に偏った農業政策にあったようです。この点の理解があいまいなので、資料問題の読み取りとして出てきた場合、江戸時代の改革と合わせて得点率が低いのではないかと思います。
③地震
非常に数が膨大ですので、これも飢饉と同じく数を絞りたいと思います。また、年表形式にして、地域と被害状況のみまとめます。
・1923年 関東大地震:死者・行方不明者10万人以上。
・1933年 昭和三陸地震:岩手県、宮城県、福島県、茨城県で最大震度5。大津波が発生し、死者・行方不明者3,064人。
・1948年 福井地震:福井県福井市で最大震度6。現在の震度階級では震度7相当とされる。死者・行方不明者3,769人。
・1995年 兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災):兵庫県南部・淡路島北部で最大震度7、死者・行方不明者6,437人。
・2011年 東北地方太平洋沖地震(東日本大震災):宮城県栗原市で最大震度7。他に東日本の7県で震度6弱以上を観測。死者・行方不明者約2万2000人(うち災害関連死が約3500人)。戦後最悪の震災。北海道から関東地方にかけて太平洋沿岸部への巨大津波で甚大な被害。福島第一原子力発電所事故を招く。
死者、震度等については資料によって差があると思います。すべてWikipediaによってまとめました。東日本大震災の被害の甚大さがうかがえますが、同時に阪神・淡路大震災忘れられない災害の一つです。
④水害
台風と梅雨の長雨と調べるのが大変だったので、割愛します。死者については、長雨・大雨による洪水、土石流によって家屋が倒壊したり、浸水によっておぼれたりが原因で発生しています。東日本大震災の時もそうでしたが、地盤のゆるい地域で斜面の表層崩壊が起こって、地面が流されてきます。危険な場所から距離を取るのが一番ですね。統計をまとめるのは大変そうですが、小学校1・2年生の社会や理科にぜひ取り入れてほしいと思います。生活でもよいですね。
災害は、そのときの自然災害にばかり目がいきがちですが、特に江戸の飢饉を見ると、当時の政治・政策と被害が密接に結びついていつことも重要です。もちろん、災害を未然に防ぐ日頃の政策や災害の後の支援策なども行われているわけですが、人間はああしてくれなかったこうしてくれなかったという悪い点にばかり目が行きがちです。特に、近年の災害については、起こった当初の被害状況しか説明を見かけないような気がします。その点について調べてみなさんにお伝えすることができたら、私も最強の塾講師になれるのですが、なかなか難しいので、理解を深めるために、歴史上の事件・事故・災害について深く掘り下げて調べてみるのもとてもいい家庭学習のやり方になると思います。